朝井リョウの新作『イン・ザ・メガチャーチ』が物凄く面白かった。
この小説を読んだことで、ここ数年「推し活」という言葉が浸透してきた社会を見ていてぼんやりと考えていたことが、くっきりとした輪郭をもって考えられるようになった。読み終わった後もずっと本作で書かれていたことを思い出しては思考してしまうような、本当に面白い小説だったので、特に自分に刺さった部分の感想を書きつつ、「推し活」について考える。
※『イン・ザ・メガチャーチ』の文中の表現の引用や、おおまかな話の流れが記載されています。決定的なネタバレはないです。
まず前提として、今の私は「推し」や「推し活」という言葉について、もう自分が進んで使う言葉ではないな、と思っている。好きなキャラクター、好きな芸能人、好きなVtuberなどが私にはいるが、その人達について「推し」という言葉をあまり使いたくないな……という状態になっているのだ。
それはなぜか。多分、他者が使っている「推し」という言葉と、自分が認識している「推し」の言葉が持つノリみたいなものが合わなくなってきているからなのかな……と思ってる。なんかニュアンス違うんだよな……みたいな感じがある。
また、「推し」を連呼する人達に対して「推しだから」って言っとけばなんでも受容されると思ってないか?と、思っているから、というのもあるだろう。
“その人”が好きなのではなく、“恋”が好きな人――いわゆる「恋に恋している人」がいるように、「推しは究極的に誰でもよくて、ただ“推しがいる自分”に酔っている人間」が好きじゃないんだと思う。
これは二次元作品だと余計にそう思う。それそのキャラである必要ある?現実に実在しないキャラクターになら何してもいいと思ってんのか?と思うことがあるのだ。
この辺は最近というよりも昔からではあるんだけど、SNSの発達によって「自分以外のオタク」があまりにも見えやすくなったことにより、余計にそう思うようになったところはあるのかもしれない。
そういうあれこれがあり、昔は推しという言葉を使っていたが、最近は「推し」という言葉をあまり使いたくないな……となっている。「推し」という言葉、共通認識ができている言葉だし、わかりやすいし手軽だし、使いやすい言葉なので使った方が手っ取り早い時は使うのだけど。
そして、「推し活」について。SNSでは目立つ人が目に入るので、私が観測している「推し活」って過激なものが多いんだろうなと思うが、それらを見ると、何のためにそこまでするんだろう、と思うことが多い。
愛のためとか推しのためとか、総括すると「好きだから」なんだろうけど、本当に?という気持ちがどこかにある。無意味では?と感じるほどに大量購入されたグッズの写真などを見ると、特にそう思う。その缶バッジ、そのアクスタ、そんなにたくさんあっても意味なくない?と思ってしまうのだ。
他には、推しのアカウントをめちゃくちゃ監視していて、最近新しくフォローしたのは誰か、誰にフォローされているのかを把握している人とか、推しの写真一枚で何もかもを特定しにかかる人とか、そこまでするのか……と呆気にとられてしまう。
他にも自分は到底やらないな……と思う「推し活」は多々あるが、書いてたらキリがないので割愛。そういう過激(と私が感じる)推し活を見ると、自分は全然推し活してるって感じじゃないな……と思う。
が、さらなる第三者から見たら私も別ベクトルの推し活をしている人なんだろうなあと思っている。二次創作って推し活のひとつだと思うし、もっと緩く言えば漫画の連載を追ってるとか、配信を見ているとかも推し活のひとつだろうなと思うし。
ただ、社会一般で見たとき「推し活」として語られているのは「推しにお金を落とす行動」だな~と感じることが多い。
それゆえ、私は漫画アニメアイドル配信者などのエンタメコンテンツについて、お金を落として貢ぐ、みたいなことをしたことがほとんどないので、世間一般で言うところの「推し活」はしてないんだよな……と思っている。
グッズを買って、公式動画の再生数を回して、誕生日には祭壇を作ってケーキ買って祝って、痛バ作って、概念ネイルして……みたいなことをしたことがない。
「ほとんどない」と書いたのは、ソシャゲの課金に四年弱を費やしていた経験があるからだ。あれは明確に「お金を落とす行為」をしていた。
私は原作のエピソードをすべて知ってないと気が済まない&二次創作するなら原作を全部読みこみたいオタクで、それゆえに推しキャラ(4人)のエピソードをすべて知っていないと気が済まないという状態だった。
最高レアのカードにサブストーリーがついており、そのエピソードも「原作」と認識していたので、ガチャで推しキャラが出る度に課金して、大体の場合天井まで回していた。私が知らない彼らの物語があることが嫌だ、という状態だった。
課金から離れた今、凄い状態だったな……と思うが、別にこのスタンスは今もさして変わってない。ただ、最後の方はコンコルド効果も相まって、ストーリーへの期待が全然なくなっている状態になっているのにも関わらず課金してガチャを回していたので、それはよくなかったな……と思ってる。なのでもうソシャゲは決してインストールしないことにしている。
ソシャゲの課金を除けば、漫画は原作を買うだけ、アイドルもCDやライブBlu-rayを買うだけで、ライブもツアー中に一度行ければよくて、全通みたいなことは目指したことないし、グッズもペンライトを買う程度。ブロマイドやキャラクターグッズは買ったことがないし、外出先でアクスタやぬいの写真を撮りたいと思ったことがない。
写真やアクスタを見て何になる?グッズをたくさん買っても部屋で置物になるだけじゃない?ぬいを連れていくことがそんなに楽しいのか?と思っている。
そんな調子なので、近年の「推し活」についてを総括すると、「ついていけないな……」という感情を抱いていた。
さて、「推し」と「推し活」について読了前に考えていたことを書いたところで、『イン・ザ・メガチャーチ』の話に入る。この小説、朝井リョウが書く「推し活」がテーマの作品ということで、読む前から期待値がかなり高かった。加えて、帯に書かれている「神がいないこの国で人を操るには、“物語”を使うのが一番いいんですよ」という文章によって、その期待値がより高まっていた。
物語。それは、すごく身に覚えのある単語だった。好きなコンテンツについて、私は物語を吸うのが好きなんだろうな、と思っている。アイドルの上手い歌やダンス、美しい外見。配信者の上手いゲームプレイ、面白いトーク。
それらは確かに「好き」の一部ではあるが、私が本質的に好きなのは彼らが様々な経緯を経て努力して“何か”を成し遂げている、という物語なんだよな、という思いが常々あった。
そのため、『イン・ザ・メガチャーチ』に「推し活」と「物語」の親和性が書かれているのだろうと想起させてくれるこの帯文は、読み始める際の期待感をより膨らませてくれた。
この小説は、ファンダム経済を築く側(アイドルグループ運営)の47歳男性の久保田、ファンダムにのめりこむ大学生の澄香、ファンダムにのめりこんでいた三十代派遣社員女性の隅川の三者三様の視点で「推し活」についてを描いた作品だ。
『イン・ザ・メガチャーチ』で特に自分に刺さった部分はいくつかあり、それらについて一つずつ語っていく。
まずは推し活をしていた時代の隅川さん(三十代派遣社員女性)の、オタクらしい思考について。隅川さんは藤見倫太郎という舞台俳優を推している。その俳優がインタビューでこのように話す。
「チケット以外にも色々と買ってくださるファンの方がいることはわかっています。本当にありがたいことだと思いますが、舞台そのもので満足いただけるよう、努力を続けていきたいとも思っています」
なんてことない、当たり障りのないインタビューだ。推しがこのように話している姿を見て、隅川さんは彼の眉がハの字になっているところに着目する。
このハの字の眉毛を見た隅川さんは、藤見倫太郎の心情について「舞台を見に来てくれることの純粋な感謝の気持ちと、ランダムブロマイドに始まるグッズの複数買いを促す運営の方針への申し訳なさが心の中で混在しているのだろう」と受け取るのだ。
当たり障りのないインタビューの受け答え中の、眉の動きひとつで「運営の方針をファンに対して申し訳なく思っているんだろう」というところまで思考を巡らせている隅川さんを見て(読んで)、あまりにも……あまりにもわかるな、と思った。
眉の動きひとつだけで、言葉の裏を汲み取る。勝手に「ファン思いがゆえに申し訳なく思ってくれてるんだろうな」という、自分にとって都合のいい物語を展開する。些細なインタビューひとつでそのように思考が飛躍してしまうの、めちゃくちゃオタクだな……と思った。
このシーンではさらに、以下のように書かれている。
倫太郎の、ほんの数秒の映像。たった一枚の写真、一行の言葉。それらから、何百倍もの情報量を吸い上げて、一気に心身がおぼれていく。
この文章、本当に「そう」なんだよな……。オタクは推しのたった一言から、その何百倍もの情報を吸い上げて、勝手に物語を作る。
「一言を何百倍にも」というところが肝だと思った。演者側がなんてことなく発した言葉でさえも、その発言に込められている何もかもを汲み取りにいって、過去の発言と紐づけて、言ってないことまで勝手に思考を巡らせて、何百倍もの情報を受け取る。それがオタクだと思う。
この曲のこの歌詞がこういう意味があって、それが○○のこういうところと合ってて……みたいなコメントとか、昔の発言を一生覚えていてそれを引用してくるオタクとか、声の抑揚ひとつで様々な感情を汲み取ったりするオタクとか、色々と思い出す光景がありすぎてしんどかった。
「昔歌は苦手っていってたAくんが今はこんなに上手くなったの感動する」みたいなやつとか……「Cちゃんはいつも自分に自信ないって言ってるけど、ライブパフォーマンスだけは卑下しないの、自分が努力している部分への自負を感じて最高」みたいなやつとか……。心当たりがありすぎた。
この辺りのシーンはあまりにも心当たりがありすぎて、見たことがありすぎて、なんでこんなにオタクの生態を知ってるんだよ……と、朝井リョウに対して畏怖の感情が湧き上がった。
少し話は逸れるが、作中に「うちらの毎日ってテレビでポジティブに紹介できるようなことじゃないじゃん。寧ろ気狂いの所業っていうか」という会話文がある。この台詞、めっちゃオタクっぽいなと思った。
自分がしているオタクとしての行動をネガティブに捉えているところ、「気狂いの所業」という過度に誇張した単語を使うところにオタクっぽさを感じた。この一言に限った話ではなく、全文引用してしまいたいくらい、作中のオタク同士の会話やSNSのオタクのツイートが見たことあるものばかりで末恐ろしかった。
視点は変わり、“推し活”を仕掛けるアイドルグループのプロデューサー側の久保田の視点では、以下のようなことが語られる。
「オーディション番組出身のグループを担当して改めて実感したよ。人は物語に弱い。パフォーマンスそのものよりも、その前後の物語に注目している人がすごく多い。そして、物語に魅入られたファンは離れづらい」
もちろん、とテレビで話しているときみたいに橋本は先回りする。
「楽曲やパフォーマンスのクオリティも大切だけど、そういうものを全部まとめて乗せられる船代わりの物語があると、ファンダムの結束度が全然違うんだ」
これ、本当にそうだな……と思った。本当に「そう」としか言えない。正に自分のことだなと思って、それがとても痛かった。
パフォーマンスそのものよりも、その前後の物語が大事なのだ、私にとっては。顔の良さとか、ダンスが上手いとか演技が上手いとかではなく、そこに至るまでの物語が大事で、それを見事に言い当てられて面食らった。
そして「船代わりの物語があるとファンダムの結束度が違う」というのは、ファンダムでの結束をしたことがないので実感はなかったが、作中で描かれている「ファンダムの結束」は見たことがあるものばかりだったので、そういう側面もすごくあるだろうな……と思った。
作中での「ファンダムの結束」は、推し俳優が地上波に出演する時にファンダムの皆で一気にハッシュタグつけてツイートしてトレンド入りさせようという試みだったり、デビューシングルCDの枚数をオリコン1位にするために積もう!みたいな内容だった。それらを促すオタク達のツイート群があまりにも見たことあるものばかりで怖かった。
余談だが、このアイドルグループのグループ名が「bloome」(ブルーミー)(自分を花開かせようみたいな由来のグループ名)で、ファンネームが「花道」なの、ありそうっていうかもはや「ある」じゃんと思った。
ちなみに藤見倫太郎のファンの総称は「りんファミ」だった。これも「ある」……。ハッシュタグのトレンド入りを成功に対しての【この母数でトレンド入りて。りんファミ安定のツイ廃ファンダムすぎる】みたいなツイートとか、見たことありすぎた。
久保田が在籍するチームでは、ソシャゲの「百万人にそれなりに利用されるよりも、一万人の利用者を深く没頭させるほうが、リターンが大きくなる」という仕組みをもとに、「熱量の低い百万人ではなく、熱量の高い一万人を育て上げること」を目標に、様々なマーケティングを行っていく。(熱量の低い百万人へ向けたマーケティングは別チームが行っている)
そして、「熱量の高い一万人」になりうる人の人物像について、以下のように書かれている。
「差し出された物語に自ら乗り込み、没入していける気質の人。物語と自分との境界線が曖昧になるほど共感能力が高く、何でも自分ごととして捉えがちな人。没頭度が高く、自ら視野を狭めていける人。ひいては自ら拡散や布教に励んでくれる人」
そんなに細かく書くのやめてよ! 嫌すぎるタイプの「これ私のことだ……」だった。私がそっくりそのままそういう人間かと言われると違う部分もあるが、「物語に没入していける気質」ではあると思うので、文章で刺されたような感覚があった。
仕方ないだろ! 物語に没入していって、自他境界を曖昧にして視野を狭めるのが楽しいんだからさあ……仕方ないだろ……!!
さらにアイドルグループ運営視点では、推し活についての分析でこう語られていく。
「何でもいいんです。酒でもタバコでもギャンブルでも、SNSでも海外ドラマでも読書でも恋愛でも育児でも仕事でも環境保護活動でも。とにかく、何かに対して熱量を高めていたい、何かに時間や労力や資金を注いでいたいという人はとても多い」
それは多分、と、国見が続ける。
「我を忘れて何かに夢中になっているほうが、楽だからです」
楽。
「ずっと我に返ったまま生きるにはこの世界は殺伐としすぎていますし、人間の寿命は長すぎますから」<中略>
「物語への没入というのは、手っ取り早く我を忘れるために有効な手段の一つなんですよね」
これも本当にそうだな……と思った。我を忘れて何かに夢中になっている方が楽なのだ、人生は。その通りすぎた。
何かにハマっているものがない時、人生はあまりにも虚無すぎる。したくもない労働が待っているだけで、本当に空虚で、自分はなんで生きてるんだろう、と思ったりする。だから私は常に何かにハマりたいな、と思っているし、ハマっているものへの熱量が落ち着いてきている気配を感じると怖くなる。
「○○がドームに立つまで死ねない」みたいなことを言っているオタクがよくいるが、そういう「生きがい」みたいなものがないと、人は簡単に壊れる気がしている。自分がそうなので。
そういう意味では仕事に「熱量を高める」のが一番いいのだろうな……と思っているが、そう上手くいかないので難しい。物語に没入している時、自分が向き合うべき現実のことなど何も考えなくてよくなる。それがあまりにも「楽」なのは、とてもよく理解できた。
「結局皆、信じるものが欲しいんだと思います。特に、この社会は生きづらい、自分はこの世界に不当に扱われていると感じている人ほど」
国見の湿った口元が、また緩む。
「そういう状況で信じられそうなものに出会ったとき、人は、その対象に強い共感や感情移入を試みます。時間や労力、資金の注ぎ込み先に値するという確固たる根拠を手にするべく、対象を自分自身に引き寄せ、重ねようとします。重ねることはなくても、この人が健やかに生きられる世界であってほしい、とその対象に何か大いなるものを託そうとします」
口元は確かに緩んでいる。それなのにやっぱり、なぜか笑顔には見えない。
「その作業を繰り返すうち、もはや対象は、自分にとって最も都合のいい幻覚にその姿を変えていきます。そういう“推し”の作り方をする人の熱量は非常に高くなりがちです。幻覚を守るためには、強い物語が必要ですから」
生きづらい社会の中で信じられそうなものに出会った時、その対象に共感や感情移入を試みる。その対象を重ねることはなくとも、「この人が健やかに生きられる世界であってほしい」と思う、という一連の文章も、本当にそうだな……と思った。
「重ねてはない」が、しかし対象の存在に対しての祈りに似た何かが発生するというのは、わかってしまうところがあった。
分析の中で、オタクの気質が「プロデューサー、アナリスト、学級委員、疑似恋愛、信徒」の5つに分類されていたのも面白かった。運営側のアクションひとつひとつに対して、気質ごとに反応が違うから、どの気質が反応しているかの見極めが必要、という話がされる。
各気質の説明は長いので割愛するが、どの分類のオタクも「いる」なあ……と思いながら読んだ。疑似恋愛気質の特徴として「写真一枚で一晩しんどくなれる人たち」と書かれていたのが面白かった。端的で、それでいてわかりやすい表現すぎた。見たことがありすぎる。
そして、「熱量の高い一万人」に最もなりやすい気質が「信徒気質」だと言及される。そんな信徒気質の人間の傾向について、作中では以下のように語られている。
「傾向としては、とにかく推しの夢が叶ってほしい、幸せになってほしい、よく食べてよく休んで健やかでいてほしい、それが私にとっての幸せ、あなたの存在が私の人生を照らしている、この素晴らしさを世の中に伝えたい――こういう雰囲気です。共感能力が最も高く、自他境界も最も曖昧、拡大解釈の最大値を記録するのも大抵この層です。この気質がよく使うフレーズとしては、アイドルを目指してくれてありがとう、生まれてきてくれてありがとう、この辺りの巨大な感謝系ですね」
こういうオタク見たことありすぎるな……。5分類の中で一番見たことあるまであった。なんなら5分類の中で一番オタクのあるべき姿的な認識をされているのってこの気質では?とさえ思った。「そこにいてくれるだけで十分」「存在に感謝」「自分のことを大切にしてくれてありがとう」系のオタク、一番いませんか?
他にも、信徒気質の特徴について「一の情報から十の感情を受け取り、自分の人生に引き寄せて百の物語を生み出す。そして、その物語に自分以外の人間を巻き込むべく、千の布教に励む。」と書かれていて、それももう……もう……。知っているな、と思った。そういうオタクを見たことがあるなと思ったし、部分的に自分だなとも思った。一の感情から百の物語を生み出すあたりとか。
また、これらのオタクの「気質」分類の中で、「学級委員気質」の人物像として「推しを絶対に消費したくない、自分の加害性に敏感でいたいという気持ちが強い」「オタク的な消費行動と自分の倫理の間で引き裂かれるような思いを抱いていることが多い」という特徴があると言及された。そういう部分は自分にもあるな……と思った。
私はたまに、「正しい“推し方”ってなんなんだろう」と考える。私が行っている消費は、彼ら彼女らにとっては嫌なことではないのだろうか、私がしていることはすべて迷惑で、だとしたら、「推し」にとって一番喜ばしく思われる行動ってなんなんだろう、と思うことがあるのだ。
それを考える時、「すべての“反応”って迷惑なのかもしれないな」というところに思考が至ってしまい、最終的には、ただただ黙った方がいいんだろうな……というところに行き着く。
そこまで考えこそするが、黙れるわけもないし、たった数秒の行動から、たった一言から物語を見出して、過去の発言と紐づけて、それらを何百倍にも膨れ上がらせて消費するのが好きなので、それをやめられるとも思ってない。結局エンタメって消費されないと始まらないよなと割り切っている部分もある。「学級委員気質」の説明を読んで、そんなことを考えさせられた。
この「推し活」や「熱量の高い一万人の特徴」についての分析パートは、社会学の新書を読んでいるかのような読み心地だった。それが小説として読みやすくアレンジされているのだから文句の付け所がない。
なんでこんなに「推し活にハマる人達」がどうして推し活にハマっているのか、どういう思考にあるのかを言語化できるんだよ、と朝井リョウに対して思った。朝井リョウってそういう社会へのアンテナが鋭すぎるんだよな……本当に……そこが好きなんだけども……。
人は物語に弱いとか、我を忘れて何かに夢中になっているほうが楽だとか、本当にそうだなと思う。今の自分がそうだし、SNSを見渡していてもそういう人が多いように感じる。
この小説を読んで気づかされたことのひとつに、「ファンダムは、人が孤独から逃れるのにあまりにも都合のいい共同体だ」ということがある。
オタクをしていた時の隅川さん(三十代派遣社員女性)は、オタク友達のいづみさんと推しの話をしていたが、推しがいなくなった途端、仕事の「報告」でしか自分が会話をしていないことに気づき、底知れない孤独感に苛まれる。
大学での人間関係が上手くいかないことに鬱屈した感情を抱いていた澄香は、推し活を通してファンダムと交流していく中で心が満たされていく。「同じ人を、同じ角度で、同じ熱量で好きな人達」との交流で、孤独感が解消されていく。
そして、ハマっているものがなく、雑談をするような相手が社内にも社外にもいない中年男性の久保田は、家に帰るといつも一人で孤独を感じている。物語が三者三様の目線で描かれていることにより、“推し活”が孤独感の解消に繋がっているのだ、ということが鮮明に浮かび上がってくる。この構成に唸らされた。
コロナ禍を経た現代社会の「孤独」問題は深刻だ。中高年男性に友人がおらず、定年後とにかく暇になるという現象は有名だが、最近は二十代後半くらいからのライフステージの変化などに起因する「友達が減っていく」現象についてもよく見かける気がする。
その点を考えると、たしかにファンダムって凄いな……と気づかされた。礼節さえ弁えてれば自分と違う年代の人との交流も広がるし。
ファンダムって基本的にエコーチェンバーするから自分に似た人が周りにいるようになって、それゆえ居心地がよくてあたたかいんだよな……ということを、澄香のファンダムとの交流を通して感じてしまった。
何かのコンテンツについて、自分と同じ角度で、同じ熱量で好きな人達との同調や共感や連帯って、本当に麻薬だなあと思う。麻薬っていうか……用法用量を守れば人生を豊かにするものだとは思う。モルヒネなんだよな……。
ファンダムが現代日本において孤独感から脱却できるコミュニティになっているという話の展開、「言われてみれば確かにな……」と思わされた。ファンダムに限った話ではなく、「○○界隈」なんかも全般的にそんな感じな気がする。
ファンダム内での交流と連帯だけでなく、ファンダム内での対立が作中で描かれてるのもわかってるなあと思った。他担からの「ビジュ悪すぎ」みたいなアンチコメとかを通報する場面とか、民度の悪い行動はやめてくださいみたいな自治厨とかもいて、「いるなあ……」と思った。
さて、アイドル運営チームの久保田は、「熱量の高い一万人」「信徒気質オタク」が、推しのためにオタクがどういう「推し活」をしているのかを知っていく。
わかりやすい例だと、公式MVの再生数を稼ぐために一日中動画を再生するなどだ。その再生方法もループ再生ではなく、間に別の動画を挟み、検索欄から検索し、そして再度再生するという方法で再生していることを知る。(YouTubeのアルゴリズム的にその方が良いらしい)
他にも、先輩筋にあたるアイドルグループのデビューシングルの枚数を上回るべく、オタク達がCDを積みまくったりしている様を、SNSを通して観測していく。
信徒気質のオタクは布教も熱心だし、推しが少しでも幸せになるように、華々しい道を歩けるように、様々な行動を徹底している。熱量の高い一万人がどういう「推し活」をしているのかを知っていく中で、久保田は以下のような思考をする。
浅はかだなと思う。
何してんだよと思う。
本末転倒で、何も本質的じゃないなと思う。
でも、じゃあ他にどんな有効な応援方法があるんだと訊かれたら、正解を差し出せるわけでもない。
応援している対象をより高みへと押し上げるために、数値として結果が出ることを献金含め合理的にサポートすることの何が悪いのか。そして、それ以外にもっと効果的かつ本質的な方法など存在するのか。
わからない。
これもこれで本当にわかる、と思った。動画の再生数を増やすために一心不乱に指を動かしたり、自分の生活を削る勢いでCDを積んでいるオタクを見て、私も同様に「浅はかだな」「何してんだよ」と思うからだ。
でも、他にどんな応援方法があるのかと聞かれるとわからない。本当にわからない。「推しに成功してほしい」と思った時にできることなんて、目に見えてわかりやすい数値を増やすことくらいなんじゃないか……と、私も思った。
私は信徒気質のオタクの何を小馬鹿にしているのだろう。それ以上の行動はないはずなのに。オタクが推しに何かしら貢献したい、この人の成功に寄与したい、と思った時、できることなんて金を積むことくらいなはずなのに。わかっていても白けた目で見てしまう。
「そこまでやっても変わらんでしょ」「そんなに必死にオタクして楽しいか?」と冷笑しているのかもしれない。
でも、必死にオタクするのってこの上なく楽しいんだよな……本当にね……。睡眠時間を削って配信に張り付くのは楽しいし、台詞を暗記する勢いでストーリーを読みこむのも楽しい。どうしようもなく楽しいのだ。
必死さが向かう先が「お金を積むこと」なオタクを前にして、私が彼ら彼女らを馬鹿にできるのかと言われると、できないな……と思うが、だからといって冷笑をやめられるかと聞かれると、それはそれで難しいなとも思う。
何が本当に対象のためになるのかとか、何が今最も本質的な行為なのかという問いは、”視野を拡げて考えてみると”という呪文を唱えされすれば、その答えを永遠に反転させられる。
つまり、どの角度から見ても間違いなく本質的に正しい答えなんて、どこにもない。
どこかで、”この視野で、ある程度の確率で、間違う”と覚悟を決めるしかないのだ。その事実を受け入れず、可能な限り本質的でありたいあまり、そして誰からも攻撃されたくないあまり、さらに視野を拡げるべく視点をどんどん後ろへ引いていくと、いつの間にか誰の姿も見えないくらいに自分だけが全てから遠ざかっている。
そうなるともう、何の行動にも出られなくなる。全ての角度からの審判を俯瞰できるまで視野を拡げることは、誰とも何とも連帯できないほどこの世界から遠く離れることと同義だからだ。
本質的であろうとすればするほど、何の行動にも出なければどこからも裁かれないという考えに吞み込まれる。そんなことに何の意味があるんだとか、それが最適解じゃないのにとか、そんな冷笑だけが両手に溢れ、人生の砂時計をただ眺めているだけになる。
この辺もめちゃくちゃ「そうだな……」と納得させられた。この小説、「そうだな……」と「わかる……」ばかりだった。ファンダム経済にのめりこむ人を小馬鹿にするのは簡単だ。だけど、そうやって小馬鹿にして、「自分はわかっている」という態度でいすぎることの危険性が書かれている。
人から小馬鹿にされたくないあまり、仮想敵に攻撃されたくないあまり、視点を後ろへ引いていった先には、自分だけが世界から遠ざかり、誰とも連帯できなくなる状態が待ち受けている。冷笑だけが残り、人生の砂時計をただ眺めているだけになる。本当にそうだなと思う。
そして、砂時計を眺めているだけの人生は果てしなく虚無なのだ。だからこそ「この視野で、間違う」という覚悟をどこかで決めるしかない、というのはすごくわかるなと思った。冷笑ばかりしていないで、どこかで熱血になる必要があるんだよな、本当に……。
今の世の中には、視野狭窄になるからこそ得られる楽しさや嬉しさがあるのだ、と思ったし、視野を拡げることだけがいいことではない、という文章がよかった。
しばらくしてから、久保田はbloome運営のやり口について「こんなに花道(ファンの総称)から搾り取るようなことをするなんて……」という切り口で難色を示すような発言をする。ここで運営チームのリーダーが「搾り取っていません。使い切らせてあげてるんです」と返答するのだが、ここの会話も非常に興味深かった。
「私たちはこれまでもこれからもずっと、花道から何も搾り取ってはいません、花道に、自分自身を使い切らせてあげているんです」
<中略>
「皆、自分を余らせたくないんです」
と言った。
「今って本当に、人生の指針がないですよね。幸せの形は人それぞれって言えば聞こえはいいですが、あらゆるパターンの人生が可視化されて、これまで提唱されてきた生き方の正解とか成功の条件みたいなものはただの幻想だってことが知れ渡りました。どのパターンの人生でも穴があるんです」
「でもそれって、言い換えれば、自分というリソースを使い切ったもん勝ち、ってことでもあると思うんですよね。万人に通ずる物差しがなくなったということは、その対象が何であれ、自分を使い切っている人には外部からのジャッジが一切通用しないということでもあります」
「だからこそ、自分はこれを”幸せ”として生きるって決めたら、そこで自分を過剰に消費し尽くそうとする人が多いんだと思います。資金や時間や思考力も注ぎ込んで、沸いたり揉めたり喜んだり怒ったりしながら感情も使い果たして、没頭度を高めるどころか狂いの強度を周囲に喧伝までして、そうしているうちは、何かに対して自分を余す所なく使い切っているという本人以外が覆しようのない幸福感を得られるわけですから」
「確かに、今も本質的な正解みたいなものにこだわる人たちは色々と口を出してきます。実際、主に学級委員気質の花道がよくCDの大量購入システムやランダムグッズ商法に問題提起をしていますよね。でもそれらがなくなったところで、それに自分を注いでいた人たちは別の何かで自分を過剰に消費するしかありません。一番のタブーは、自分が余ることなんです。自分を使い切ることが今の時代に手に入れられる唯一の正解であり、”幸せ”なので」
「何もかもが揺らぎやすい今、確固たる信仰対象があり、それに対して自分を使い切っている姿そのものに希少価値が生まれるんです、たとえその対象が社会通念的に無価値だったり、いっそ人類存続に不都合なものであっても、客観性を伴わない猪突猛進さこそ今の時代に機能し得る唯一の物差しなんです。こういうことを頑張っていて偉い、ではなく、よくわからないけどめちゃくちゃ本気で生きていて眩しい。そういう世界に私たちは生きているんです」
「これまでは、間違いさえしなければ、なんとなく正解の部屋に入れました。でも今は正解の部屋自体がないから、たとえ一つも間違わないでいたとしても、ただ”間違わなかった人”になるだけなんですよね。そこには何の加点もない。だからもう何をするにも、自分はこうやって間違うって腹決めて脳みそ溶かして動くしかないんですよね。寧ろそうしない限り、結局何も」
凄い。ただただ圧倒された。本当にその通りだ……と思った。「自分を使い切る」ことが途轍もなく気持ちいいことを私は知っている。「自分が余る」ことの虚無感も知っている。
たしかに、今は本当に人生の指針がない時代だと思う。どのパターンも上手くいかないケースばかりが目についてしまい、何もしたくないな、と思ってしまう。
転職も怖いし、子育てもしたくない。家も欲しいと思わない。就職するまではあった、目指すべき旗みたいなものがなくて、ただただ荒野に立たされている。そんな状態だ。
人生に対してある程度の正解がある就職まではよかった。よりよい高校を目指し、よりよい大学を目指して、いい企業に就職する。
それが終わってからが私にとっては地獄だった。ここから先40年以上働かなくてはいけないのかという絶望。特に目標も何もない仕事。欲しいものも特になく、ただただ漫然と過ぎていく日々。
衣食住が整っていて、仕事も基本定時退社できて、買いたいものは大体買える。何も問題がないはずなのに、この生活があと40年も続くのかと思うと、死にたくてたまらなくなる。そういう時が定期的にある。
ただ生きていくためだけに、したくもない労働をするくらいならいっそ死んでしまいたいなと思う。でも本当に死ぬほどの苦痛でもない。そういう甘やかな希死念慮があった。
これはまさしく「自分が余る」だなと思う。私は「間違わなかった人」になっただけだった。欲しいものがない時の労働は、ただ生命の維持と国民の義務を果たすだけのもので、本当に苦痛だ。
何も欲しくないのに、なんで私は労働しているのだろう。働かないと生きられないくらいなら、働かないで死にたいんだけどな、みたいなことをずっと考えている。
私が今陥っている状態はクォーターライフクライシスなのだろうなと思うが、果たして40歳になった時にこれらの虚無感が消えているのかどうかわからない。
しかし、社会人をやっている中で、何かのコンテンツに熱烈にハマっている時期だけは「自分が余る」ことがなかった。「推し」のことを考えていれば一日が終わる。なんなら時間が足りないとさえ思う。
推しが映画のエンドロールを最後まで見るタイプかどうかを考えているだけで、好きな酒の種類を考えているだけで時間が溶ける。あれはたしかに、「この視野で、間違うと覚悟を決めた」状態だなと思った。
「自分を使い切る」をしたことも数度ある。「自分を使い切る」をしているとき、そこにあったのはたしかに幸福だった。私の場合はお金を費やしていないのもあり、余計に幸福だけがあった。
自分を使い切っているとき、そこにあるのは高揚と爽快感だ。時間や思考力を注ぎ込んで、沸いたり揉めたり喜んだり怒ったりしながら、感情も使い果たす。
それは、あまりにも楽しかった。自分以外の「何か」に心血を注いでいると、自分のことを考えなくてよくなる。我を忘れて何かに夢中になることが、あまりにも「楽」だった。
『イン・ザ・メガチャーチ』のタイトルにも入っている「メガチャーチ」とは、一度の礼拝で2000人以上が集まる規模の教会のことだ。
今のメガチャーチは、礼拝がお祈りに行くというよりもライブに参戦という感じで、非日常感を味わえるものになっており、海外では若い世代を取り込むことに成功しているらしい。
「メガチャーチ」での集金活動・信者獲得のメカニズムは、かなり推し活マーケティングに近い、ということがこの小説の中で書かれていて、そりゃ「推し活は宗教のようだ」と言われるわけだな……と思った。
また、この小説を読んで、近年の推し活は子育てにかける熱量を「推し」に向けている、という言説を思い出した。
推し活、子育ての蜜の部分だけが手に入るんじゃないかなという気がしている。推しの成功物語を見守るのって、子の成長を喜ぶのと近しいものがあるんじゃないかなと思う。
推しの成功や失敗を自分のことのように一喜一憂するの、すごく子育てっぽさを感じる。そして子育てと違い、自分は「推し」に対して無責任であっていい、いつでも「推し」を変えられる、というのが楽すぎる。
『イン・ザ・メガチャーチ』、本当に凄い小説だなと思う。この小説を読んで特に印象に残ったのは以下の5つだ。
・オタクは一の情報を何百倍にもして物語として受け取る
・現代社会では我を忘れて何かに夢中になっているほうが楽
・推し活コミュニティは孤独感から解放される効能もある
・視野を拡げていった先にあるものは人生の砂時計を眺めることだけだから、どこかで視野を固定して、間違うと覚悟を決める必要がある
・人は自分を余らせたくないし、自分を使い切ることに幸福を感じる
人生の砂時計を眺めていたくないし、自分を余らせたくないな、と思う。視野を固定して、間違うという覚悟を決めたい。何かに自分を使い切ってしまいたい。そう思うのに、視野を拡げて冷笑してしまう自分をやめることができない。
冷笑したいわけではないのに、推しの些細な言動ひとつで一喜一憂しているオタクを見て(気にしすぎだろ……)と思ってしまう。感覚としては冷笑というよりマジレスに近い。でも冷笑だろうとマジレスだろうと変わらないんだよな、と思う。どちらにせよ視野を拡げすぎた人間の末路って感じなので。だからといって過度に視野狭窄するのもよくないから難しい。
間違う覚悟を決めたいな、と思うし、そうやって覚悟を決めたところで、その視野で見える範囲にいる・自分よりも視野狭窄している人達を見て冷笑するのもやめられないんだろうな……と思わされた。そういう自分の愚かさに気づかされた。
この小説で書かれているオタクの行動や特徴には誇張されていると感じる部分もある。こんなオタク本当にいるのかよ……と思う部分もあったが、しかし同時に(いやでもいるんだろうな……)と思わされた。
部分的に自分のことだと感じる場面が多く、冷笑しようにもできない、みたいなことが多かった。作中に登場するオタクは推しにお金を貢ぐタイプのオタクなので、そこは明らかに自分とは違うのだけど、思考回路はわかってしまうというか……わかってしまうことが私には痛かった。
自分を刺してくれる小説、中々出会えるものではないので最高だった。自分の感情を勝手に解体されて目の前で見せびらかされたような感覚だった。
ぐだぐだ書いてしまったけど、結局これからも私は一の情報を何百倍にもして物語として受け取ってそれを消費するんだろうなと思う。それが私の娯楽だから。『イン・ザ・メガチャーチ』、傑作でした。