推しがいると人生が楽しい

白鳥スタイルのキャラクター大好き人間

首吊る前にトリップしよう

2022年10月1日。私は美しい景色を見た。スクリーンに映る、仮想の存在。曖昧な空間にいる、キャラクターとも人とも言い難い存在が、歌って踊る姿に、大勢の人間が熱狂し、興奮し、感動している景色。私はその光景を愛おしいと思った。美しいと思った。

にじさんじ 4th Anniversary LIVE 「FANTASIA」 Day2』は、私にそんな映像体験をさせてくれた。

 

卯月コウがソロ曲として選んだ脱法ロック。あの曲が持つ意味を、リアルタイムで視聴していたときの私は知らなかった。知らないままに、しかし卯月コウが脱法ロックを歌ってくれたことに涙していた。

脱法ロックの歌詞が、卯月コウに歌ってもらいたい歌詞だったから。卯月コウが歌うことによって意味が何倍にも膨れ上がる歌詞だと思ったから。

首吊る前にアンプを繋いでトリップしよう、愛すべき世界へ。

卯月コウを見ているリスナーは、多かれ少なかれ、死にたいと思ったことがある人間だと思う。そんなこと言ったら、世の中の人間なんて大体一度くらいは死にたいと思ったことがあるだろうと言われそうなんだが、それは話が変わってくるので割愛。

死にたいな~と思いながら、日々をどうにか繋いでいくための、仮想空間。虚構と空想にまみれた、愛すべき世界。そこにバーチャル中学生がいる。卯月コウも、彼を好きな人達も、鬱屈していて、ひねくれた考え方ばかりしてしまって、「がんばれ」が言えない。「首吊る前に愛する世界へトリップしよう」は、ライバーになる前の卯月コウに、今の卯月コウが送った言葉であり、卯月軍団に向けられた言葉でもあり。この歌詞だけでそんなことに思いを馳せた私は、当然泣いた。

現実逃避に縋れ、と卯月コウが歌うのはすごい。だって軍団からすれば、卯月コウこそが現実の逃避先だから。そして卯月コウもまた、バーチャルという現実から逃避した先の空間に縋っているから。

最底辺に沈んでいる(なんなら外れ値にいる)のが卯月コウで、ゲームでジジプして自殺点決めるのが卯月コウで、社会不適合者なのが卯月コウなんだ。年中イキってるのが卯月コウなんだ。だから脱法ロックの歌詞は卯月コウみたいで、卯月コウが「それでもいいんだ、それが俺なんだ」と訴えかけてくれているようで、すごくよかった。にじさんロックの存在を知らなかったけど、その文脈を知らなくてもいいと思った。

 

後からにじさんロックMADの存在を知って、もちろんそのMADを見て、ああこれはたまらないな、と思った。MADの投稿から四年も時間が経っていることも、そのMADの内容も、そしてこのMADに卯月コウが突き動かされてライブ王決定戦に向かったことも、今回調べて知った。

知って、もう一度アーカイブを見返して、ああ、たまらないだろうな、卯月軍団。と思った。残念ながら私は卯月コウの配信をまだ1年程度しか追っていないから、四年間追い続けてる人ほどの感動は得られなかっただろう。でもそんな私でも、にじさんロックの文脈を知らなかった私でもあれだけ感動したのだから、文脈を知っている人達からしたら、言葉にならないほどの感動や喜び、衝撃があったんじゃないだろうか。

にじさんロックの文脈を知ってから、アーカイブで脱法ロックを見返した。コウが歌い始めた瞬間に流れる、黄色で書かれた大量の「うおおおおおおおおお」を見て、すごく幸せな気持ちになった。ライバーカメラ配信なんかはより顕著で、ロストワンの号哭の二番が始まるくらいまで放心して余韻に浸ってる姿がコメントで見てとれて、それにもまた幸せな気持ちになった。卯月コウが脱法ロックを歌うことに驚き感動する人間がこれだけいるんだと感じられたことが嬉しかったんだと思う。

また、にじさんロックの存在を知ったとき、私はハッピートリガーが歌った「アンノウン・マザーグース」のことを思い出した。

ファンアートがバズって、その存在を受けたライバーがそれになぞったものを返す。それは、バーチャルユーチューバーという存在の不安定さがあるからこそなせるものだと思う。アニメや漫画ではできなくて、三次元のアイドルでもできない。キャラクターであり、人間でもある彼らじゃないと中々できないもので、そこに「Vである意味」みたいなものがあるような気がした。

 

卯月コウが脱法ロックを歌うことについての文脈や、歌詞とのシナジーがよかったのはもちろん、パフォーマンスもめちゃくちゃよかった。特に落ちサビの台詞口調にアレンジした「なんですわ!」がすごく好きだ。

私は卯月コウの歌を好きでも嫌いでもないし、あいつの歌を上手いと思ってもいない。にじさんじで歌を売りにしている人達と聞き比べると、どれだけ欲目で見たとしても「上手い」とは言えないと思う。その認識はライブ後も変わっていない。でも、よかったんだ。脱法ロックだけじゃない、全曲よかったんだ。

特に驚いたのは社長とのデュエット「らしさ」な気がする。社長みたいに圧倒的に歌が上手いとされている人と二人きりで歌って大丈夫なんだろうか……。二人がステージに見えた瞬間、そんなことが脳裏によぎった気がする。けれどそれは杞憂だった。社長は卯月コウの歌に合わせるような歌い方をしてくれていたし、卯月コウも精一杯歌っていた。歌もよかったし、二人が向き合って歌う部分もよかったし、大人と子供が「らしさ」を歌うのもよかった。

「ちょっと待ってよ 星空は 変わらずあの日と同じだよ 理解されずとも宝物は 今でも宝物のはずでしょう」を卯月コウに歌わせてくれた社長には感謝しかない。

テレキャスタービーボーイ」のダンスはあの軍団が「かわいい」ばっかり言ってしまうくらいには可愛くてよかった。

「女々しくて」の「わんわん」は意味わからないくらい可愛くて混乱したし、ライバーカメラ配信で混乱する軍団も含めてよかった。

Snow halation」、私でも知っているラブライブの楽曲。言うことが何もない、いやある。歌い出したときから動揺と興奮、それに嬉しさと笑いが同時に起こって、すごく不思議な心理状態だった。コメントで牛丼牛丼言ってる軍団のノリが最悪で最高に好きだと思った。それでいて間奏でラ帰雪牛やってくれるの、あまりにもできすぎているだろ……。詠唱キャンセルまで含めて最高だった。

自分のリスナー以外が見ている場で、むしろリスナー以外の観客の方が多いだろう場で、卯月軍団しかわからない(実際ラ帰雪牛をどの程度のリスナーが知っているのかはわからない、どの程度普及しているネタなんだろう)ネタをやってくれることが嬉しかった。内輪ネタを公の場で行うのはダサいという考え方もあるのかもしれないが、それを加味してもなお私は嬉しかったし、その度胸に笑った。

VtLでの「ヒトツヒトツ」も、最後の「皆、いっぞ!」も勿論よかった。VtLのイントロが流れ始めたとき、「ヒトツヒトツ」を期待しなかったといえば嘘になる。ライバーカメラのコメント欄がヒトツヒトツで大盛り上がりしてたのが最高だった。

初っ端の自己紹介の「風呂入ってきたか~!?」も大好きだった。感動と笑いが同時にやってくる、なんとも不思議な体験だった。

 

FANTASIADay2における卯月コウが私の想像を超えるくらい最高だったのはもとより、ライブそのものも凄くよかった。

バーチャルユーチューバーのライブは、スクリーンに映像が流れる形のライブだ。だから、録画したものを流す、ということだってできなくはないだろうと思う。でも、このライブを観た人達は、そんなことは考えていないだろう、と思っている。

今、あのスクリーンの向こう側で、自分が好きなライバーが歌って踊っている。そう信じている人達がたくさんいることを、愛おしいと思った。それは盲目なわけでも馬鹿なわけでもなく、そう信じたほうが互いに楽しいし幸せになれるからそうしているのだと、私は思う。

暗黙の了解や不文律が多いバーチャルの世界で、「そういうものだから」と受けとめた上で、仮想のキャラクターを楽しんでいる人達のことが好きだ。

アニメや漫画が終わっても、キャラクター達はその世界の中で生き続けられる。アイドルが芸能界引退しても、もしかしたら東京の街のどこかに、日本のどこかに、一般人に戻ったその人がいるかもしれなくて、もしかしたらばったり出くわすこともあるかもしれない。1%もない可能性だけど、それは絶対にありえない、とも言い切れない。

けれど、バーチャルユーチューバーは違う。引退したら、もう二度と会うことはできない。(笹木が例外だと思っている)Vは見た目と中身があっての存在だから。YouTubeアカウントが消えてしまったら、その人がいた記録がほとんどなくなってしまう。もちろん、コラボ相手のアーカイブなどはあるのだけど。

バーチャルユーチューバーはその人自身がコンテンツだから、配信がない限り物語が更新されることもない。

そういう曖昧で不安定な場所に立っている存在を愛している人達が、自分の推しの歌やダンスで感極まっている光景。その光景を美しいと、私は思った。曲を歌うライバーの色に染まるペンライトとコメントを、美しいなと思った。なぜか胸を打たれてしまった。泡沫のような存在の彼らを愛する人達の喜びが可視化されていて、虚構を愛することができる人達がこれだけいるんだと、感動したんだと思う。

 

Vチューバ―というのはアンチも多く(アンチがいないコンテンツなんて存在しないが)「絵じゃんwww」「萌え声でスパチャ媚びてるだけ」「3Dが気持ち悪い」なんて声があったりなかったりする。そして、これらの声は私がVにハマる前に、Vに対して抱いていた印象でもある。

話は遡るが、私は二年ほど前までVが嫌いだった。興味ないとかではなく、明確に嫌悪と侮蔑の感情を持っていた。見た目がいい絵を使って、萌え声でスパチャを媚びている存在だと思っていて、そこが嫌いだった。

絵の向こう側にいる、実際に配信を行っている人間の顔や見た目がどれだけ悪かったとしても、萌え声やイケボを出すことでお金をじゃぶじゃぶ貰えている。人がゲームをしているところを見て何が楽しいんだと思っていたし、3Dも動きが気持ち悪くて嫌いだった。動くことで布や髪がめりこんだりしているのを見てダサいなと思っていた。

「画面の向こう側にいるのは人間なのに吸血鬼だと思い込むなんて無理あるだろ」なんて思っていて、その在り方が気に食わなかった。嫌いだった。

 

でも、そうじゃないんだよな。Vのコンテンツ性、エンタメ性ってそこじゃないんだ。今の私はそれを知っていて、知ることができてよかったと思っている。彼ら彼女らは可愛い(もしくはかっこいい)声で媚びてるだけなんかじゃない。皆配信を面白くするために創意工夫をしているし、ゲームが上手いとか物事の捉え方が独特だったりなどの特徴があって、それに付随しているのが声の良さってだけなんだ。

また、Vの特徴としてロープレという要素がある。私はこれが好きだ。正確には好きになった。ロープレをちゃんとやるライバー、雑なライバーがいて、どちらもそれぞれのよさがあって好きだ。長尾景はかなりしっかり祓魔師やってくれていて、そこが好きだなと思うし、卯月コウが中学生のくせに中学生らしからぬインターネット知識を持っていたりするところも好きだ。

リスナーがキャラをキャラとして楽しんでいる――例えば、吸血鬼を吸血鬼として、神を神として、高校生を高校生として――のを、遠目から見る人は馬鹿にするかもしれない。中身の人間が吸血鬼なわけないだろって。というか私はそうやって馬鹿にしていた。

でも違うんだよな。わかっているけどキャラをキャラとして認識して、そこにあるのが仮想の存在だということを分かった上で、その妄想を一緒に楽しむことができるのがVなんだ。盲目なわけでも、馬鹿なわけでもない。わかった上で楽しんでいるのが、Vを好きな人達なんだと思う。Vを好きな人達は、スクリーンに映る虚構と現実がないまぜになった空間を愛している。今の私には、Vの在り方とそれを楽しむ人々の関係が、とても美しいものだと思えている。

今まで嫌いだったものを好きになった、という経験は私の人生をブレイクスルーさせてくれたように思う。深く知らないくせに表面的なイメージで物を語ってはいけないという、当たり前のことを実際に体験できた。

 

今回のFANTASIADay2は、Vという虚構を愛する人達の喜びや感動を浴びることができたのも含めてとてもよかった。画面を覆いつくすほどの弾幕は、仮想空間を愛する人達の感動のあらわれだった。

卯月コウ、Day2に参加したライバー、そしてコメント欄。それらが私に感動をもたらしてくれた。ありがとう。

死にたくなった時に、卯月コウの脱法ロックを思い出せたらいいなと思った。どうせ自殺なんてできないから。死にたくなったら、膨大にある金ネジキ配信のアーカイブでも見ようと思う。

開場中に広がる黄色のペンライトは、とても美しかった。