推しがいると人生が楽しい

白鳥スタイルのキャラクター大好き人間

社会通念、解釈、欲望

小雪さんの彰杏が身体を重ねる事はあるんですか?」という箱をもらったので、それに答えたいと思います。

https://odaibako.net/detail/request/fce99b0b-474d-47eb-a0ce-4f4944e67744

ブログにしたので基本常体、たまに敬語。自分語り大好きなのでめちゃくちゃ自分語りがある。あと社会に対する偏見もめちゃくちゃある。

質問をもらってまず考えたことが、「解釈と欲望」、「恋人とセックスの捉え方」、「正史とその他」についてで、まずそこを説明しようと思う。前提条件を一致させておかないと、しっかりした答えが出せないなと思ったので。

それらを説明してから、じゃあ私の中の彰杏がセックスすることはあると思うのかのか、ないと思うのか、の考えを最終的にまとめていこうと思う。ちなみに、今書きだした段階だけど、全く答えが出ていない。

解釈と欲望

解釈と欲望は、解釈と性癖、とも言い換えられると思う。任意のキャラに対してバスケでPGしてほしいな、とか、こういう服着て欲しいな、とか、大小こもごも、色々な欲望があるとき、それが解釈としてそう思うのか、ただただ自分の性癖からそれを欲しているのかを判断したい、と私は思ってる。

性癖と解釈が合致する場合が一番よくて、性癖優先で嬉しいことを書いたりすることもある。大体そういうときは「これはしないかもしれないけど、でもしてると私が嬉しいし、してると思うから!!」とゴリ押してる気がする。また、解釈優先で「こういうのが見たいけどしないからなあ……」と我慢することもある。どれがいいとか悪いとかはなく、完全にケースバイケースだと思う。

欲望や性癖という意味では、私は彰杏がセックスするところを見たいような気がしている。「Gimme×Gimme」をビビバスアーカイブで歌ったときとかは特に、本当にめちゃくちゃ彰杏の性が見たいよ~~~~!!!!と思って暴れていた。

「Gimme×Gimme」の歌詞がそういう歌詞だし、なんだろうな、私がオタクだからだと思うんだが、推しカプのセックスを見れること=嬉しい、みたいに脊髄反射になってる気がする。エロ=嬉しい、みたいな思考が深層心理に刻みこまれてしまっている気がする。

だけど、いざ彰杏がセックスしてる二次創作を読んだりしてみると、(あれ……? なんか違うな……?)と思ってしまう。これは私がたまたまその創作と相性が悪かっただけ、というのは十分にある。

じゃあ、願望全振りにするとして、そこに至る経緯なども考えなくていいという前提があったとき、どんなセックスだったらいいのか? と聞かれると、答えに迷ってしまう。なんとなく見たい気はしているけど、詳細に語れと言われると、どんな光景を見たいんだろう? と首を傾げてしまう。不思議だ。

ここで、次のトピックスに話を移す。

恋人とセックスの捉え方

これね~~説明するとめちゃくちゃ長くなりそうだな、と思ってるんだけど、説明しないと話が成り立たないな、とも思っているので、長くなって申し訳ないけどずらずら書く。

結論を先に書いておくと、二次創作界隈でポピュラーな価値観としてある「恋人」「セックス」の捉え方と、私が考える「恋人」「セックス」が結構違ってる、という話。

社会一般におけるセックスの捉えられ方

少女漫画、ドラマ、映画、古典作品、その他もろもろ。「物語」というコンテンツにおいて、セックスという行動がもたらす話の動き方って、すごく大きいと思っている。

少女漫画での恋人とのセックスって、互いの思いが通じ合って体を重ねて体も心もひとつになる、至福であり最高に幸せな時間、みたいな描き方をされがちだと思っている。最近の少女漫画を読んでおらず、私の少女漫画知識は10年くらい前のものなので、今は違ったらごめん。

私は小学生から中学生にかけて、少女漫画、少年漫画、二次創作BLなどを読み、そしてこれが極めつけなんだが、携帯小説にドハマりしていた。そのため、セックスが好きな相手とめちゃくちゃ幸せなときにする行為だという価値観がバチバチに固く根付いてたように思う。

ついでに、恋人が作れずセックスができないことが人として劣っているのではないか、とめちゃくちゃ焦ったりもした。

めちゃくちゃ早熟な人じゃない限り、セックスに対する幻想というものは10代の若い頃は抱きがちなんじゃないかな、と思ってる。多かれ少なかれ。なぜならあらゆる「物語」のコンテンツがそれ(セックスが最高の幸せの暗喩になる)を見せつけてくるから。最近だと違ったりするのかな? これはどの時代になってもあんまり変わらない普遍的なものだと、今の私は思ってるけど。

そもそも「結婚前に異性と性行為をしたり交際したりする」っていう価値観だってここ百年くらいの間に新しく普及していった価値観なわけだし、これから今の価値観も変わっていくのかもしれないね。私が話してるのってあくまでここ15年程度の話なので。

あと、社会一般(というか、どっちかというと二次創作界隈)の考え方として、セックスすると相手との距離が縮まったように描かれがちだな、と思ってる。仲がより深まるとか、信頼が強まるとか。セックスという行為をした影響としてそういう結果を得られるように話が作られているような気がしている。たかがセックスでそんな関係が深まるわけないだろ、と私は思っている。

そんなこんなで、今の私は「社会の一般的な価値観でいえば、セックスって好きな相手と体を重ねる最高に幸せな行為ってことになってるんだろうな」と思っている。偏見だけど。偏見にならないようにするにはデータ示さないといけなくて、それは面倒なので。

私が考えるセックス

じゃあ私はセックスのことをどう思ってるのか? っていうと、セックスしたところで幸せだなとは思わないし、ただの身体接触だなと思ってる(なんならハグする方が幸せな感じがあるなとさえ思っている、これは多分幼少期にめちゃくちゃ母親に抱きしめられていた記憶の名残だと思う)セックスしたところで何が変わるわけでもないし、でも何かが変わってしまう行為でもあるなあ、と思っている。矛盾している。

少なくとも昔みたいに好きな相手とするセックスがめちゃくちゃ幸せみたいな考えはかなり崩れ去ったと思ってるし、なんなら好きな相手としたいことって身体接触じゃなくて会話だなあとさえ思ってる。「話をするのが楽しい」って、任意の他者とする行為の中で一番好きだ。

でもだからといって恋人がセックスすることを馬鹿にしたりはしない。なぜなら自分もそうしたいと思っていた時期があったし、これからまたそう思うときがくるかもしれないから。それでも世の中の人間、セックス好きすぎじゃないか……? 皆なぜ……? とは、たまに思うけど。そんなこと言ったら本能に組み込まれてるから好きに決まってるだろって感じだしな。

セックスしたところで何が変わるわけではないってのも、ほんとになんも変わらないと思ってるんだよな。セックスをしようがしまいが椅子に書いてある名前は変わらないから、何が変わるわけでもない、って思ってるんだと思う。(椅子の話はこの後説明します)

セックスすることによって距離が縮まるとか、急に相手のことを意識するなんてのは中々ないと思ってる。なぜなら私にとってセックスはただの身体接触で、好きな人とする幸せな行為、として認識してないので。

じゃあ何かが変わるって何が変わるのかって、頭では身体接触だと認識してるんだけど、過去自分が読んできた創作物や周囲の友人達の恋愛話などによって、相手への態度が何も変わってないようでなんか変わっちゃう、みたいな感じがある。「この人とセックスしちゃったのか……」みたいな事実が頭にあって、なんか変わるよな……と思っている。漠然としていて答えになってなくて申し訳ない。

ここまでで言いたかったのは、世間一般が考える「セックス」と、私が考える「セックス」の認識が結構違うんだよなあ、ということです。

私が考える「恋人」

さて、前段で話した「椅子」の話と、恋人の話。

これは私が割と頻繁に言ってることで、質問してくださった方も認識されてることかな、とは思うんだけど、任意の二者間において「恋人」が一番幸せなポジション、だとは思ってないんですよね。その話をします。

「恋人」っていうのはあくまである一人(この場合では東雲彰人と仮定する)の周りに置かれている椅子についてる名札のひとつに過ぎなくて、でも東雲彰人の周りには、「相棒」って書いてある席があって。「相棒」の席に座れる人はたった一人しかいない。「恋人」の席に座れる人は替えがきくけど、「相棒」の席に座れるのはたった一人。東雲彰人にとっては「白石杏」って名前が書いてある椅子もあるし、「小豆沢こはね」の席もある。白石杏についても同じことが言えて、それはVivid BAD SQUADの四人全員に同じことが言えると思っている。

自分の人生に必要だな、って人を考えるとき、そこに恋人という役割(名札であり名前)はいらなくて、ただその人がいればそれでいい、っていうのが一番いいなあ、と思っている。個人的に。

漠然とした概念の話になってしまって伝わりにくいかな、と思うんだけど、東雲彰人の心象風景に、まず彼が一人立っていて、その隣に青柳冬弥しか座れない椅子が置いてある。対面するように白石杏の椅子が置いてあって、そこには白石杏しか座ることができない。東雲彰人の中に、白石杏しか座れない場所があって、そこは恋人(という名札のついたモブ)では、座ることはおろか立ち入ることもできない場所だ。と、思っている。そしてそれは白石杏も同じだと思ってる。(この辺はテネシーハニーのあとがきでもちょこちょこ書いた気がするので、もしかしたら同じことを二度読ませているかもしれないです、すみません……)

そういう、「その人しか座れない椅子」が互いにある状態が、すごく好きだ。

逆に私がCPとして恋愛させたり恋人という名前をつけたりする類の二人は、もともと原作で交際または両想い描写がある二人か、「これ恋人って名前つけないと疎遠になるな」って思う二人が多い。遠くにある椅子を「恋人」って名前にして近くに置き直すようなイメージ。

私は「恋人」をあくまで「名札」とか「役割」としてしか捉えてないし、二人の関係が恋人になってセックスすることで一番親密になる、とも思ってない。

この辺の関係性の考え方で、わかりやすいし共感できるな~と思っているnoteがあるので貼っておく。(noteだからそのうち読めなくなるかも)

「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」と「リレーションシップ・アナーキー」はバンド名じゃないけど、パンクロックな気がする。

https://note.com/you1026/n/n2f53f688c858

性別だけじゃない。関係性だってグラデーションだ。

https://note.com/you1026/n/n50dee9f9b3dc

社会一般における「恋人」

さて、じゃあ社会一般ではどうだろう? と考えると、二者(特に異性間)の関係性の最高峰が恋人だ、という価値観がまだ根強くあると思っている。契約結婚も最後は互いのことを本当に好きになって終わる話ばっかりだし。そういう価値観が根ざしてしまってるのは、幼少期はシンデレラから始まる、物語のテンプレートゆえかなあ、と思っている。

極論だけど、山で生まれて獣に育てられたらセックスは本能的に見つけるかもしれないけど、恋愛とか恋人とかいう概念を学ばないと思うので。

社会での価値観、というとかなり大きい話になってしまうので、「二次創作での価値観」「オタクの中での価値観」とするほうが、話は小さくなる。結論は変わらないけど。

なんなら二次創作やカップリングを愛好するオタクのほうが、恋人という関係性が最高峰、と思ってる人の割合が多いような気がする。それくらい二次創作には「恋人」が最高峰の作品が多いなあ、と感じている。それが悪いわけじゃないんだけど。そっちの方が圧倒的にスタンダードだし、メジャーだと思うので。

話が逸れるけど、めちゃくちゃ互いを信頼しあっている会話をしている二人を見て「付き合ってるじゃんこれは」と言うオタク、いるじゃないですか。あれって、恋人相手だと言えるけど友達相手には中々言いにくい(とオタクが思ってる)ことを、キャラ同士が言い合っているからそう思うんだと思う。まあ口癖とか脊髄反射で言っちゃうみたいなものも十分あると思うけど。

大多数の人が恋人という名前が書いた席に座っている相手にしていることを、恋人でもない二人がしているから「付き合ってるじゃんこれは」って思うのかな、と思っている。

これは世の中全体に対して結構不思議に思ってることなんだけど、恋人相手だと急に遠慮がなくなる人、多くない? と思ってる。関係性の名前が変わっただけでそんなに? と思うことも少なくない。が、しかし、その人達の気持ちもめっちゃくちゃわかる。わかりすぎて辛くなるくらいにはわかる。過去、私も恋人という名前が書いた椅子に座ってるだけの人に、その椅子に座り続けてもらうためだけにめちゃくちゃ固執していた時期があるので。

さらに話が逸れるが、よく言われる「恋に恋している状態」って、常に「好きな人」または「恋人」という椅子に誰かを座らせていないと落ち着かない状態だなあ、と思っている。「田中太郎」みたいな固有名詞の椅子じゃなくて、誰でも座れる椅子に誰かを座らせて自分の近くにその椅子を置いてる、って感じに思っている。

恋人とセックスの関係

更に社会一般の考えと私の考えの差の話。

世の中、恋人同士ならセックスする、って考えがめちゃくちゃ基盤にありますよね…? 同性でも異性でも、そこだけは全然変わらないよね……? と、思っている。先に述べたとおり今の私はセックスに対して肉体接触だなあ程度にしか思ってないので……。恋人じゃなくてもセックスしてもいいと思っているし、恋人って名前がついてない相手とセックスした途端に倫理観の欠如を疑われないといけないの、納得いかないんだが……と思っている。さらにいえば恋人じゃない相手とするセックスの相手のことを「セフレ」と呼んで、それは幸せなセックスじゃないとする、みたいな価値観にも納得いってない。たしかに一方的に好意を抱いている相手からセフレとして扱われるのは辛い、というのはわかる。

ただ、中には本当にただただセックスが好きで交際はめんどくさい人達が組み合わさって楽しくセックスしてるだけかもしれないじゃん? そういう楽しさを持ってる人に対して「マジか……」と引いてしまう人が多いなあ、と、私は今の社会を見て思っている。

これに関しては二次創作もかなりその色があると思っていて、恋人じゃない二人がセックスしているというやつ、セフレから恋人になる話以外ほっとんど読んだことがない。恋人とするセックスがハピエンで、恋人以外とするセックスは序盤の展開の一部にすぎない、またはセフレのまま終わる後味悪い作品、みたいな暗黙の了解を感じている。もしかしたら私が読んだことないだけで、恋人って名前がついてない二人がセックスはするままその関係性を続けていく話がたくさんあるのかもしれないけど……。

ここまでで話したかったことのまとめは、私が考える「恋人」「セックス」「恋人とセックスの相互関係」って、二次創作界隈のメジャーな価値観と結構違うんです、ということです。

正史とその他

最近あんまり話してない気がするけど、私はよく自作について「正史」かそうでないか、という話をする。

正史っていうのは、原作の推し達が最終回後に辿るルートとして一番「ありそう」、なんなら「ある」と思っている話の流れのこと。

二次創作してると、何度も推しカプの初夜を書いたり、何度も告白する話を書いたり、高校のときに告白するパターンの話や、社会人になってから交際するような話を書くことがあると思う。

その中で自分が一番「ある」と思ってる話の流れのことを「正史」と呼んでいる。あくまで自作内での区別の話。付き合うルートが「ある」ルートなわけねえだろ、という指摘はごもっともで、しかしそういう話ではなく、「もし付き合うなら私はこの流れが一番あると思っているルート」のことを正史と呼んでいる。

私が書いたビの二次創作内でかなり正史だな~と思ってるのは、我往くは荒野と交わらない二人かな……どっちも些細な出来事を深堀りしただけの話なので、本編内で起きてても違和感ない話にできたかな、と思っている。

彰杏に対する自分の欲目を加味すると、テネシーハニーのこともかなり正史だと思っていて……セックスさせなかったからこそ正史だな……と思えているところはかなりある。

そして「こうなってほしい」という欲望を加味すると、「宣誓、僕たち」は一番私が見たいVivid BAD SQUADの「その先」の姿として、正史だな、と思っている。アメリカは突拍子もなさすぎるのでプロセカ本編では起こらないことは自覚しているけど、自分としては正史と呼びたい、そういう塩梅。

逆に君シリーズはリリック前に書いたこともあって色々本編の内容と誤差が発生してしまってるので、正史ではないんだよな……東雲誕の話とかかなり気に入ってはいるけど正史だとは思ってないな……。あれは「プロセカ本編ではやれなそうな話」をやりたくてやった話なので。

ここで話したかったのは、「解釈」の中にも「正史」とその他がある、ということでした。

彰杏はセックスするのか?

さて、ようやく本題。ここまで前提条件を色々と説明しておいたが、今もなお、するのかしないのか、見たいのか見たくないのかがはっきりしていない。

消去法でいきたくて、前提の説明を行った。

私の中で、杏と彰人が二次創作によくある類の恋人になりセックスをする、というルートは、あまり考えてない。私はこの二人について「人とセックスするには告白ないし交際確認の手順を踏み、恋人という関係性になって、恋人期間を少し経てからセックスする」という流れを、それが普通だと認識しているだろうな、と思っている。

二十代後半の彼らなら色々経験をして考え方が変わってるかもしれないが、プロセカ本編の高校一年生の彼らは、きっとそういう認識をしているんじゃないかなあ、と思っている。そう思う理由は、社会的にその考え方が一般的だからでもあり、自分が高校生のときにそういう認識をしてたからでもあり、そして何より「恋愛について一般的ではない価値観を持っている、という特徴をつけるなら、それが性格として押し出されるだろう。押し出されてないということは、その点については社会一般とそう変わらない価値観を持っているのだろう」と思っているから。彼らが物語の中のコンテンツであるからこその考え方。余談だけど、花嫁イベはそれを感じちゃったから辛くなっちゃったのかも。

で、そういう社会一般の「恋人」という価値観を持っているまま、二人が恋人になることは(私は)ないかなあ、と思っている。それは私の考え方が、「既に白石杏の固有名詞がついた椅子があるのに、わざわざ誰でも座れる恋人の椅子に座ってもらう必要ないしな……」と思ってるからだと思う。

もっというと、二次創作でよくある、セックスで心も体も繋がって二人が一人になる感じがして、幸せで高揚感を感じて……みたいなやつを、彼らは歌とイベントで味わう事ができるよな、と思っているところもある。彼らは歌うことで高揚感を感じるし、一体感を感じるし、生きてて一番幸せな瞬間が四人で歌を歌っているときだと思っているので。

テネシーハニーでも書いたように、セックスできる距離感だな~と互いに自覚はしてるけど、でも別にする必要はないな……と思ってしないで終わるのが最高に好きだな……と思っている。なぜする必要がないと彼らが思うのかっていうと、「もう十分関係性は深まってるし、わざわざセックスをしてまで深めなくても、歌でそれができるし、わざわざ「男と女」の椅子に座り直す必要はないな」と、深層心理で二人が思ってるだろうなあ、と、私が思っているからです。主語がややこしい文章になってしまった。

そう考えると、やっぱりセックスしないのかもしれないな……私の中にいる彰杏は……という気持ちになってくるな……。

じゃあ、願望全振りにするとして、そこに至る経緯なども考えなくていいという前提があったとき、どんな彰杏のセックスなら見たいのか? って、冒頭で考えたけど、うーん、そうだな、いつもみたいに悪態を言い合ってる感じなら見たいかも……? くらいかなあ。「いつもみたいに」が重要な気がする。

いつもの二人のやりとりが崩れてしまう瞬間、別に見なくていいかな……になっちゃう気がする。そしてセックスをするとなるとどうしても「いつもの二人の会話」が崩れることが多い気がしてるから、想像できないな……になってるのかな、と思う。

「崩れる」っていうのは、セックスって男役(ちょっと嫌な言葉だけどそう書くのが一番わかりやすいので)がオラついて女役が恥じらう、みたいな暗黙の了解があるじゃないですか。そういうのは全然見たいと思ってないな。あと、互いに下着姿で恥じらったりしてる絵が私の脳内では想像しにくいんですよね……。

あと、二次創作の中でのセックスって、相手の内側を暴く行為であると同時に、ありのままの自分を晒す行為だとも、私は思っていて。でも彰杏ってセックスしなくても相手の内側をちゃんと見れてるし、自分を晒してるんですよね……。だから余計にしなくてもいいかも、と思ってるのかもしれない。

もっと言えばさっきテネシーハニーのこと色目込みで正史だと思ってるって書いたし、私が正史だと思ってるルートはセックス発生しないルートなんだろうなあ、と思う。

冒頭で、欲望だけで言えば「見たい」と思ってる、って話をしたけど、その「見たい」って気持ちはパブロフの犬によるものなんじゃないかと思えてきた、今。これまでのオタク人生によって培われたものによって「見たいよ~~~!!!」って思ってるだけで、実際はただの条件反射なだけかも……って答えになった気がする。

それに、「見たい」って思いは欲望の部分に過ぎなくて、絶対に「解釈」にはならないな、と思ってる。いや、無理矢理こじつければいけなくはないけど、少なくとも私は、それは違うなあと思ってしまう。

さっき、欲望として「いつもみたいに悪態を言い合ってる感じなら」って書いたけど、解釈として考えるとそうなるルートが全然思いつかない。ぜんっぜん想像できないし、なんなら最中のちょっとしたやりとりでさえ思いつかない。当然前後の流れも思いつかないし、「こういうルートならありえるだろうな、正史にはしないけど見たいな」と思う道が見つからない。

ひとつ抜け道があるとすれば、伝説超え後にVivid BAD SQUADが解散するルートならワンチャンあると思ってる。解散したことによって椅子の位置が離れたことにより、名前をつけて近づけようとする、っていう話の流れ。でも私にとって「伝説超えした後もVivid BAD SQUADとして四人で歌い続ける」っていうのは、彼らの二次創作をする上で何よりも譲れない部分なので、絶対にできないな、となる。となると結論が出る。

結論:私の解釈の彰杏はセックスしません!

※あくまで私個人の解釈なので、セックスする類のカップリングを否定する意図は全くありません。

質問ありがとうございました!色々考えをまとめられて楽しかったです!